「栃尾市史 別巻Ⅱ」 栃尾市史編集委員会 (1981.3.30)より抜粋

村の沿革

 開村年代は明らかではないが、慶応四(一八六八)年の「越後国古志郡村鑑帳」によれば、比礼の開村は、嘉祥年間(八四八-五〇)に民家七戸がこの地に居住し、村を形成したときであると伝えている。この七戸は、言い伝えによれば、①佐藤万治郎、①渡辺徳左衛門、①小林金七、①中村久右衛門、②斎藤次右衛門、②斎藤与兵衛、③佐藤清左衛門であるといい、七戸は、諏訪神社を建立して、祭神建御名方命を産土神として崇拝したという。
開村の伝説や諏訪神社の由緒が、そのまま比礼の開村の事情を正しく伝えているかどうかは不明であるが、比礼が古くから村を形成してきたという意味くらいに解釈すべきであろう。
これとは別に、比礼の草分けは五軒コウジであるとも伝えられている。その五軒は、トウジン(転出)、金七、久右衛門、桂助それと残りの一軒は明らかではないという。さらに草分けは四軒であるとも、七軒であるとも伝えられており、いずれが正しいかは判然としない。
では、比礼の開村はいつのころであったのだろうか。文明年間(一四六九-八六)の越後検地帳や、明応六(一四九七)年の国衛之帳は、現在の西谷地区の村名を濁(頃)・一萱(一之貝)・程川(本津川)・田口(田之ロ)・西俣(西野俣)・木山沢・森明(森上)・中俣(中野俣)・半沢兼(半蔵金)と記載し、既にこの当時それぞれの村が成立していたことを伝えている。しかし、それには比礼の村名をみることはできない。
一方、比礼には医術の神、薬種の神、目の神として病気平癒を祈願して信仰された「長太郎薬師」がまつられている。新田村を除く市内の薬師信仰が、「中世までさかのぼらせていくことが可能」(『栃尾市史(上巻)』)と考えられることからすれば、比礼が村として成立したのは、文明・明応以降の中世後期であるとも考えたい。
 次に、比礼の地名の起こりであるが、軽井沢では次のように言い伝えている。
 大同年間(八〇六-九)、この地方を弘法大師が巡錫した際、軽井沢の「まな板石」という大きな石の上で「鰈」という海魚を料理した。その時、鰈のひれが比礼の方向をさしたことに由来して、比礼の地名が起こったのだという。付言すれば、軽井沢は鰈の頭の部分が向いた、したがって軽井沢は鰈沢であるという。一之貝は頭の次の部分、すなわち一のへいであり、荷頃は二番目の切身、すなわち二のへいに由来して地名が起ったと伝えている。
 また、「飛礼」が比礼に、あるいは「火霊」が比礼に変わったとする説もある。慶応二(一八六六)年の『守門糸車』によれば、「地獄谷という所に草生津(石油)が出る。点火すれば何日でも燃え続ける」とある。天和元(一六八ー)年の高人別納物帳にも「火の出る谷がある」とあり、これ以前から石油が湧出していたようである。この地獄谷から湧出し、点火すれば燃焼する石油に対する驚嘆や宗教的な意味合いをもって飛礼・火霊が、比礼に転じたのではないかというのである。 

村高と戸口の変遷

 比礼は、上杉景勝の会津移封後、堀秀治の所領となるが、元和六(一六二〇)年、長岡藩主牧野忠成の加地に伴い、長岡藩領となった。幕府が牧野氏に宛てた「知行目録」によれば、当時の石高は、「高三拾石三斗四升二合」とある(長岡郷土史』第十三号)。
 牧野氏による検地は、寛永十二(一六三五)年九月九日、稲垣八郎兵衛、萩原才次郎、舟津市郎右衛門、梅野次左衛門らにより実施された。この検地は牧野前期検地と称され、栃尾組内では奥地山村か災害頻発地で、堀氏の検地高と実情に大きなへだたりのあった村で実施され、比礼もその一村であった(栃尾市史』上巻第三編・第二章参照)。
 そのときの田畑反別の合計は、三町二反九畝六歩、三八石七斗一升八合であり、その内訳を田畑別にみると、次のようである。田方では、上田は四反畝一五歩、六石九斗七升五合。中田は四反五畝、五石八斗五升。下田は二町四畝二四歩、二四石五斗七升六歩である。したがって田方の合計は、二町八反六畝九歩、三七石四斗一合となる。上・中・下田の田の総面積に対する割合をみると、上田は一五・七バーセント、中田は一五・二パーセソト、下田は六九・一パーセントとなる。一方、畑方は、上畑が二畝七歩、一斗六升七合。中畑はなく、下畑が三反二〇歩、一石一斗五升である。田畑の総面積に対するそれぞれの割合を示すまでもなく、田への依存度が非常に強いことが分かるとともに、生産性の低い下田がその大部分を占めていることからしても、生産基盤が不安定な村であったということができよう。なお宝永二(一七〇五)年の栃尾組高命帳によれば、この村は「野山山村は広いが、畑方は悪地のため先年御検地の節、居屋敷だけを検地」の対象としたとある。したがって前記の畑高は居住地を畑高に換算して記載されたわけであり、畑作がわずかであったことが分かる。
 正保二(一六四五)年、栃尾組の大部分の村々で実施された牧野本検地では、同年十月十日に飛礼惣右衛門新田が、須山左次兵衛、河田又兵衛の検地役人によって実施されている。その石高は、下田五反二一歩、六石八升四合である。生産基盤の安定拡大を図るために、江戸時代前期から新田の開発が進められていたことが伺える。
 天和元(一六八一)年の「栃尾組高人別納物帳」によれば、当時の村高は三九石九升四合である。また「大豆二石、油へ五斗、小豆二斗五升、真綿五把を出す。二匁八分白布役、家職なし、籠、ほていを作っている。火の出る谷がある」とあり、農作物として大豆、油へ、小豆、真綿を生産していたこと、白布役を負担していたこと、「家職いわゆる職人はいなかったこと、農閑余業として籠、ほていを生産していたこと、石油の出る谷があったことが分かる。
 天和の「栃尾組高人別納物帳」には、比礼とは別項目を設けて同所新田が記載されている。正保の検地からすれば、おそらくこれは飛礼惣右衛門新田を指すのであろう。それには次のように記載されている。「高二ー石八斗二升四合、家数人数は本村の内にある。大豆一石、油へ二斗五升を出す」とあり、新田が飛躍的に増加していることが分かる。
 なお、当時の人口構成は、家数一五軒、人数は男六四人、女五八人の合計一二二人で、一戸平均は八人強である。
 次いで、安永二(一七〇五)年の栃尾組村郷田畑高命帳によれば、村高は本途、外新田が三九石九斗四合、このほかに年々新田が一石二斗八升あり、都合四一石一斗八升四合となり、天和に比較して、年々新田分が増加している。それは「比礼地内の山々から湧出する水や、地獄谷の沢水を用水として、所々に江道を掘りかけ廻し」ているという、用水路の開発に伴うものである。
 また畑高は、一石三斗ー升七合と寛永十二年の検地高と全く変化していない。しかし「野山多く悪地の所であるが、焼畑をしたり肥料を入れたりして手入れし、作徳」を得ているが、前述した検地の際の事情を考慮して「内証取続罷在」とある。
 一方、飛礼惣右衛門新田は、本村に比較して新田開発が進んでいる。安永の「栃尾組村郷田畑高命帳」によれば、本途・外新田は一五石五斗二升四合、年々新田一二石一斗六升の都合二七石六斗八升四合である。天和元年と比較して五石八斗六升の増加となっている。この開発は同帳によれば、「本村地方の内で新田に切起し支配してきたが、本田の用水に隙りが出た」。そのため「上々御検儀」のうえ、本地新田ともに、「肝煎百生割地に命ぜられ、惣百姓本地新田ともに高を請けて支配するようになった。したがって用水の隙りもなくなり、年々新田を切起してきている」とある。村が一つの納税単位であった当時においては、用水の良否により土地所有者の生産高と税負担に差が生ずるのは当然のことである。その解決の方策として、比礼においては藩の指導により割地を実施したことが分かる(栃尾市史』上巻第三編・第二章参照)。
 宝永二(一七〇五)年の比礼の戸口の構成は、戸数二〇戸、名子一戸であり、人口は男女別は明らかではないが一五六人である。天和と比較して、戸数では名子一戸を含めて六戸、人口で三四人の増加となっている。「村入り」については、主に若衆として長期間働きに来ていた者が、その奉公先で許されて「若衆家持(分家)として村入りすることが多かったが、明治二十(一八八七)年以前においては他地域からの村入りは一切認められなかったと伝えられている。したがって、村高そのものが少ない比礼においては、他地域からの村入りにより土地の細分化が行われることを未然に防ぐ方途として、村入りを拒否していたのであろう。一戸平均の家族構成人数をみると約七・四人で、天和の八・一人に比べてわずかに減少している。おそらく村内において小家族に分解しつつ分家が行われ、戸数の増加をみたためであろう。
 次に、天保五(一八三四)年の郷帳によれば、比礼の村高は六四石三斗七升四合、比礼惣右衛門新田(郷帳は飛礼でなく比礼と記す)は三〇石六斗九升九合とあり、村高はさらに増加している。宝永以降積極的に新田開発が進められていることが分かる。なお、嘉永二(一八四九)年、長岡藩は財政基盤の拡大を図って、積極的な新田開発策をとる。それに対応して、翌三年には栃尾組内の多数の村から大規模な新田開発の願いが提出され、許可されている。その中に、比礼の清左衛門の一町六反五畝の開田願も含まれている。この開田が実施されたか否かは不明であるが、当時比礼にこれだけ大規模な開田を企画する豪農がいたことだけは確かである。この年の開田願に対しては各村々から反対が起こり、やがて紛争を引起こすようになり、現在の荷頃地区に限っていえば、その年の八月には荷頃で、十一月には一之貝で紛争が起こっている(『栃尾市史』上巻第五編・第一章参照)。しかし、比礼で反対や紛争が起こった形跡はない。とするとこれ以前の新田開発も、こうした豪農を中心に進められてきたのであろうか。さらに言えば、比礼の身分構成が清左衛門に代表されるような豪農層と、小農層とに分化し、豪農層を中心とした村政が成立していたのかも知れない。
 慶応二(一八六六)年の『守門糸車』によれば、村高は六七石六斗余り、戸数は三〇戸となっている。農間余業としては、女は紬織りに従事し、そのほかにわらび、まゆ・木炭を産出したとある。当時の庄屋は、栃尾町の清水屋清水宗右衛門が兼帯していた。比礼惣右衛門新田の石高は三七石二斗余り、このときには戸数が一戸あり、庄屋として中村六左衛門が一戸を構えていた。比礼惣右衛門新田は、このころには東谷の柳島村、村高三五石余、戸数一八戸をしのぐ規模にまで開発が進められていたのである。
 そして、江戸幕府が崩接する慶応四(一八六八)年の「越後国古志郡比礼村鑑帳」は、当時の様子を次のように伝えている。「村は東西北に山を負い、南に稚児清水川の流れる谷合いに在る。 家数三四軒、人口一九四人、馬数二三疋農耕に従事する。春は、男は持ち山の柴を伐って長岡へ搬出し、塩茶に代替する。女は山菜を採り、絹紬を少々つくる。秋は男女共に田畑の作業に従事する」とあり、農間余業の実態を知ることができる。また土地の状況については「棚田は地味赤色、疲迫。陽気少々風入りが悪く、水不足にして絶えず早損あり、諸植物繁殖せず粟、稗、馬鈴薯などを作る」とある。棚田にして田が開発されても、それに対応する用水の整備が困難であったことを伝えている。この年の比礼の村高は六九石三斗一升四合、比礼惣右衛門新田は三九石九斗一升三合である(「旧高旧領取調帳(中部編)』。
 なお、『守門糸車』によれば、「北組浦瀬村間道一里ばかり、北組宮地村へ栃尾往来切付け致したいと、松兵衛と申す者が願立て、細道を切付けたが今だに成就していない」とある。当時の経済圏はもちろん栃尾町であるが、長岡との交流も貢租の運搬だけでなく、産物としての柴や山菜の販路として要求され、一之貝・軽井沢・森立峠を越えて乙吉に通ずる以前に、この道路の開発も企画されたのであろう。明治に入って、宮路からこの道路の共同開発が提案されたが、油田開発に関連して浦瀬街道が改良されたこともあって不成立に終ったと伝えられている。

戊辰戦争と比礼

 慶応四(一八六八)年五月十九日の長岡城の落域に伴い、戦火は栃尾郷に及んだ。この比礼は長岡城奪還の要地森立峠とその稜線の制圧のために、会津藩兵の拠点となったところであり、長岡城落城の折には敗走兵が通過したところでもある。したがって戊辰戦争に関係した言い伝えがいくつか残されているが、そのうちの一つを次に述べてみよう。
 斎藤長太郎は長岡藩の槍術師範伊道右衛門の出入りの家であった。道右衛門戦死の風聞に分家七郎外と三人で村を出て、新保村の某茶屋でその真相を確かめ、猿橋川中に浮かぶ道右衛門の死体を探し求め引上げたところが、維新政府軍の藩兵に見とがめられた。三人は逃れて某茶屋に助けを求め、維新政府軍の人夫にまぎれこんで難を逃れたという。また渡辺孫次右衛門は、傷を負った長岡藩士小西新八を山小屋にかくまって助け、新八は後日盲教育家となってその時の礼に来たと伝えられている(栃尾市史資料(第五集)』)。
 なお戊辰戦争の面影を伝えるものとしては、長太郎薬師の上に長岡藩の砲台が、展望台には維新政府軍陣営の跡が残されている。

佐藤清左衛門の寺小屋

 化政期以降近郷でも寺小屋や私塾が、庶民の識字運動に伴って多数開設され、比礼においても佐藤清左衛門によって寺小屋が開設されたと伝えられる。清左衛門の経歴については不明であるが、生来の学問好きで、独学で得た知識を近所の子弟を集めて教えていたという。その数は五、六人程度であったと伝えられている。明治八(一八七五)年、比礼校開設の折には初代教員として迎えられている。

明治以降の比札

 明治五(一八七二)年、明治政府は地方行政の改革を図り、庄屋、名主などの旧役職を廃し、町や村に戸長、副戸長を設置するとともに、大区小区制を実施した。比礼は第三大区十小区に組入れられ、小区惣代は西中野俣の金内嘉十郎と、木山沢の保科亀太であった。
 その後明治六(一八七三)年柏崎県が新潟県に合併され、新潟県による区割改正が実施されると、比礼は十五大区小二区に所属した。そのときの小区長は、柏崎県の小区惣代であった金内嘉十郎が再任されている。
 この当時の比礼村民の生活を大きく変えたと思われるのは、学制発布による比礼校の創設であろう。比礼校は明治八(一八七五)年六月一日、字木戸の内に第三中学校区公立第十二番小学西野俣校附属比礼校として創設された。当時の児童数は四四人であった(比礼校創立百周年』参照)。それ以降の比礼校の歩みについては、『同書」を参照されたい。
 さらに石油資源の開発も見逃すことはできない。「比礼村誌」によれば、「本字地内地獄谷、諏訪平、横根などに石油鉱の存在しあるは、遠く享保の昔、徳川幕府が吏員を派して調査を遂て曾て公にせられし、石油鉱脈地図に依りて明らかなりき、明治維新即ち戊新の役の当時村役人より民政所へ
上申したる書類の中に、左の一節も有之し、一地獄谷と申所之沢合より移り火仕候得者、地より火出申候所御座候」とある。また『宝田二十五年史』にも「比礼の地、地獄谷に於てはその水面にガスの墳出するあり、地獄谷の名これに起因す。而して、明治以前すでに採油を試みたる者ありと伝えられる」と記されている。
 比礼を含む明治期の古志郡の原油産出量と、その額、明治二十七年当時比礼に杭区を有していた会社をあげると、次の(表97・98)のようになる。(図表省略)
 この石油開発は、明治九(一八七六)年の農務省雇地質調査技師の調査を経て、明治二十五(一八九二)年の宝田石油株式会社の創立により発展するわけである。村民は石油関係で働くことを嫌い、石油関係の人々に米・野菜・たき木などを販売して生計にあてていたが、後には工夫となって働きに出たという。また石油採取のために送電線が引込まれたこともあって、周辺地域の中でも早く大正九(一九二〇)年には電灯が村にともり、石油の輪送に伴って長岡方面への道路も開かれた。石油関係者や工夫が流入し、最盛期には村の人口が五〇〇人以上に増加したという。
 こうした石油開発による繁栄も、採油量の減少とともに漸時衰退していき、昭和三十八(一九六〇)年にはついに閉山をむかえるのである。それに伴って当時四五〇人ほどの人口も漸次減少し、昭和五十五年の国勢調査では人口二〇二人、戸口五六戸となっている。なお採油は、現在数本の石油櫓が村民らの手によって動かされているが、普日の思影はない。
 一方、昭和四十八(一九七三)年に着工された「栃尾・長岡間快速道路」(国道三五一号)の開通をひかえ、比礼は再び大きく変わろうとしている。

信仰と習俗

 比礼には、諏訪神社、薬師祠と昭和三十四、五年ころまでは伊夜日子社があった。
 諏訪神社は前述のとおり、嘉祥年間に村をつくった草分け七戸が産土神として祀ったと伝えられている。現在でも村の鎮守として、鎮守さまと呼ばれ信仰されている。例祭は夏祭りとして盆のころに行われていたものが、大正ころに四月二十七日となり、現在は四月十八日に行われている。農事の関係で序々に早められてきたのだという。
 例祭当日は、村の入口二ヵ所と諏訪社の登り口に「道切り縄」を張る。これは例祭が済んでも取り除かないことになっている。当日は赤飯、するめ、夏みかんの供え物と玉串を準備し、お祓いが済むと村人が玉串を奉典してお詣りをする。その後にお堂で各自持寄りの酒肴で飲食をする。現在は公民館で行っている。また初嫁は、最初の例祭にあたるときだけ正装して母親とともに参拝することになっている。
 例祭のほかに、諏訪様の命日にあたる四月二十七日に、祭神建御名方命とともに合祀してある諸神を祀ることも行われている。
 伊夜日子社は、元来、比礼に祀られていたものではない。明治三十三(一九〇〇)年、宝田石油株式会社々長山田又七が、弥彦神社の分社として建立したものである。
 例祭は六月十五日で、昼は舞が奉納された。夜は大鳥居から社殿までの間に大きな角提灯がともされ、社殿の裏側に立てられた鉄塔から放射状に張られた縄にも提灯がともされ、栃尾町などからきた出店が並んだという。主に石油関係の人々が参拝し、明治から大正にかけてがその最盛期であった。その華麗さは諏訪神社の祭礼をしのぐほどだったと伝えられる。しかし第二次世界大戦、敗戦、さらに石油産出量の減少に伴う混乱の中で、しだいに衰退し消滅してしまった。そして昭和三十九(一九六一)年には御神体も他地へ移され、現在は社殿の跡と老松が当時を偲ぶものとして残されている(比礼校創立百周年』参照)。
 このほかに、田の神・山の神・蚕神・金神など生業の神の信仰もさかんである。
 田の神は、春秋の社日が祭りで、「社日が春早く、秋遅いと作が悪い。春遅く、秋が早いと豊作」であるという。山の神は、現在諏訪神社の境内に合祀されており、二月十二日が祭りである。当日は朝飯前に赤飯やカラコを山の神に供え、杉の木と細縄で作った弓矢を男が持って、アキの方へ射って来る。蚕神は旧暦の二月十六日、土の神として信仰される金神さまは、家作、土の移動などに金神よけが行われる。
 屋敷神としては、中村寿一は稲荷、佐野正広は金神(猿田彦命)、小林信男は地蔵、渡辺喜伴は蚕神をそれぞれ祀っている。